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エッセイ

シェードガーデンに窓あけて


   
   
「離婚弁護士」  
  ものすごく小さい古いテレビデオ。これを21インチに買い替えた。
今日はそれが届く日だった。
15時から17時の間にとどくということ。
GWかと思う陽気。
お昼寝からさめた子供は玄関へ駆けていき、出かけるという。
これから届くので家にいなければならない、
なのに外は春の日差しが柔らかく傾き風もないようだ。
どうして寒い家の中に(家の中のほうがひんやりしている)居られようか。
「ちょっと、ちょっとだけよ」と中庭に出てボール遊び。
さあもう帰らなきゃ、とほんの10分して家に帰ると
留守電が光っている!「ご不在のようなのでもってかえります」

それから慌ててコールセンターに連絡をとっても通じず
他のセンターにかけて取り次いでもらい・・
折り返しの電話の女性はこともなげに「明日になります」

なんで?ドライバーは?もう地域を抜けた?
そしてほんのちょっとの行き違い、
あたたかくて子供が外に出たいとせがんで
ほんのちょっとだけ敷地内で遊ばせて帰ってくるまでの時間。

コールセンターの女性にその旨を必死でしゃべる私。
軽くいなされ、翌日配達の約束で電話を切る。
ひどく落ち込んでしまう。
ドライバーもコールセンターの女性もきっと思うだろう、
子供のわがまま放題でそのために社会に迷惑をかける
だらしない専業主婦の母親。

落ち込んだまま、もう一台のテレビの部屋に行って
「離婚弁護士」の再放送のチャンネルを出してぼーっと落ち込んでいる。
子供は心配そうに寄り添ってくれている。

ストーリーは離婚した夫婦が子供の親権をめぐって対立しているという内容。
高収入でエリート銀行マンの夫は離婚後も子供をみながら働き
家の中も整然と片付いている。
かたや無理やり子供を連れ帰ったとされる妻のアパートは、ぐちゃーっと。
どうみても妻に不利な状況。

しかしそこには意外な結末が。

あまり生活も器量も美人でない妻が、どうして???

子供という一人の人間からみたとき、その謎が解けるのでした。

そう、世間があなたをどう見たかではなく、
あなたを必要としている人にとってあなたが必要十分であるかどうか。
評価主義や世間体を上手く乗りこなしているかどうかではなく
かけがえがないものを守っていけてるのかどうか。
かけがえのないものを犠牲にしていないかどうか。
のどかな美しい初春の陽射しのなかで
髪を輝かせて走る子供の笑顔は忘れられない記憶になった。
そのためにどう思われたかなんて、問題ではなかった。

女性弁護士はなかなか好くて毎回見ることにした。
そして一度は捨てた法律もこうしてみると悪くないと思った。

そしてすっかり元気になって、不得意な家事に精を出す気になった。

2006.2.15

 

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未熟な親だけど
日曜日にお弁当をつくって親子3人で競馬場に。
ほとんど公園として利用している家族連れも多い。
その遊園地でわが子はブランコの子供の前を横切った。
あっというまにコロンとはねとばされた。
私の集中力の途切れたほんの一瞬のこと。
怪我もなく、あーんと泣いたけど、相手のお母さんがとても謝ってこられた。
私は「私が悪かったんです」と応じた。
ほんとに私が目を離した、というより手の届きにくい距離にいたというのが
悪かった・・・。あと、もうひとつ「ブランコは止まりにくいので
どうかあの子を叱らないで・・・」と、相手のお母さんに言えばよかったナ。

そして3時を回る頃眠いのか大声で泣いてぐずるので
わが子を抱いたりあやしたり最後には地面に敷物を広げて
寝かしつけようとしたり・・・夫婦で焦って。周囲から注目されて。

くたくたになって帰りながら、
でも、何歳であろうとこんな未熟な親まるだしで恥ずかしい思いをしても
それが親として成長するにとても必要な大切な糧なんだ。
だから決して家に帰って「あそこで親に恥をかかせて!」なんて
子供に言ってはいけないんだ、と思ったことを忘れないでいるために
ここに書きとめておこう。

                                  2005.11.6

 

 

大切なものが消えた

 子育て期間中は、何年間もの収監というかんじに思えるのは
いまや女性といえどもほとんどが月給をもらいにいくのが当たり前になった時代、
いたしかたないことかも。
でも実際は365日休みなしの無償労働。
その無償労働をしたあげく
それをおえると社会的に廃人扱い、
いいわけ程度にパート労働をしなければならなくなるので、
そんなことなら子供を預けて12万円稼いで10万円保育料にまわすほうが
賢いというわけかもしれない。・・・そうすべきなんだろうか。

子供と顔を合わしているのが朝1時間夜3時間、というのが、
精神的に健全であるかどうか
そんなことにはとにかく目をつぶっていなければお金はできないし、
老後を惨めに過ごさねばならなくなるのだ、と思ってしまう。

そう思わねばならぬ社会にされている。
それが弱肉強食の競争社会の流れで、
そこから落ちこぼれたら「負け組み」と言われる。自己責任だと。

子供を預けて全ての女性が働きに出る社会。ってどこかにあった。
北朝鮮だったなあ。
ハイパー資本主義って、実は社会主義だったのか。
あれは社会主義というより独裁国家だからねえ。

専業主婦の社会的な存在意義のひとつは、
生活にほんとうに困っている女性のために
パイを分け与えてあげている、という
とても重要で目に見えない部分があるっていうことに
気づいている人はいるだろうか。

もうひとつは、住宅地域に残って知らず知らず、
治安と環境維持を司っているという部分。
街角から女性の視線や話し声、エレガントで平和な姿が消えていくと同時に、
子供の声もなくなった。ということにまだ気づいている人はいない気がする。


                                  2005.11.4

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やさしさノート

 

ひとびとの優しさについて、ひとつひとつ記録していくとどうだろう。
ふと思った。
きっと20年もそんなことを続けているうちにノートいっぱいの人々のやさしさが
書き留められているのではないだろうか?

子供が生まれるとき、手術室で先生や看護士さんが何人もかかって
母子を助けてくれたことを、思い出してみる。
「私と子供がこの世に要るのだ」ということの許可を、
私は生まれて初めて与えられた瞬間だった。
そのことを、そのノートの一番最初に書いておきたい、と思った。
そしていつしか、忘れたり壊れてしまったとおい昔の優しさに再会できるかもしれない。

                                  2005.3.18
つる植物の生きる知恵

 つる植物のガーデンの本を買った。                                  
田舎の庭の細い通路は隣地と低いフェンスひとつで仕切られ、
仕切られているというのは下の部分だけで実際は目の前に隣家の壁が迫っている。
生垣は両側から手入れしなければならないので無理、
かといって塀を築いたり高いフェンスを設けるのは、
どうも隣家の気分を害する気がしてしまう。
そこでつる植物を楽しみたいという気持ちを出しながらフェンスを設けるという計画。

カタログを見るように楽しいその本の最後につる植物の生存の知恵について書いてあった。
体力のないときは地面を這い、勢いをつけて他の植物によじのぼり
いちはやく頂上にたどりついてそこで光合成をし花を咲かせ実を結ぶ。

思わず、自分の姿に重ね合わせて読んでしまった。
幼い頃から自立を目指して勉強し、将来はキャリアウーマンと、
両親は期待をかけていた、それが一介の主婦になっている。
お金の苦労から親を解放したいと一生懸命だったはずなのに。
自立した一本杉になれなかったことや、一本杉を育てるためにかけた費用を
回収できないと、親は内心がっかりしているのではないか?

自分が親となってみて、そうは思わない気はするけれど、
やはり杉の木になれなかった挫折と敗北に押しつぶされていた気がする。
そう、自分はつる植物として生きている、そして自然はそれを必要とし、
自分はそうあることを自然によって許されている。

とたんに、いばらの乾いたとげのような自責の束縛が解けた。
自分を苛んでいた呪縛が解けた気がした。
自然はいつも、示唆に富んでいる。そしてこのことに気づくことが出来たのも
また知性ゆえではないかと思う、となると何の役にもたたないと捨て去っていた
名著や哲学的な思想をもたらしたあの書物の数々を
再び愛情を持って見出すことができる気がしてきた。

私はかけがえのない存在なのだ。そう思えることが
将来わが子が自分をかけがえのない存在だと思い、
他者をかけがえのない存在としてみることができるようになるのではないか。
稼いでくるお金の価値だけで存在価値が決まるわけではない。
このことを忘れないでおくよう、書き留めて。
なぜなら、こうした大切な啓示ともいえる考えはすぐに追いやられ虐げられ、
消滅寸前となってしまうから。


                                   2005.1.25

ターシャ・テューダーに憧れる

ターシャ・テューダーというひとを知ったのはわりあい最近で、
静かな生活を送る幸せを考え始めたときだった。
最初、先立つもののある変わり者のマダムかと思っていたら
若い頃から好きなことで生計をたてようと試行錯誤していたひとのようだ。
といっても、成功というのが昨今の女性起業家のように
磨きたてられた生活をめざすのでなく
あくまで自然と自分の心のなかの自然とを大切にし、世界を保つ人。
絵を描いて生計を立てるというのも、私が目指したい部分だと思う。
でも彼女のように童話は書けない気がする。
「思うとおりに歩めばいいのよ」という本を買って
いつも目の届くところにおいている。
「セザンヌの手紙」と並べて。
田舎に土地を買って、アトリエをかまえて、周囲に自然な庭園をめぐらせるという、
そういうぼんやりとした夢をもっている。
土地を買うにしても私はあまりに非力で、
そのために絵を売れるように描くしかないかもしれない。
でも絵が売れてその蓄えができて、アトリエができたら
まず人生が成功したといえる気がする。
絵が売れたら。それが難しい。
考えれば考えるほど無理な気がしてくるけれども
考える前に描いて観てもらえる場があるということだけでも
一歩近づいている気もする。
                                   2004.10.17


シェードガーデン

ガーデン、なかでもシックで落ち着きのあるガーデンを持ちたいと願っている。
でも東京の仮住まいでは小さな鉢植えの中のガーデンで精一杯。箱庭的発想。
田舎の家、別荘とでもいうような家だけれども
その裏庭が建てたきりのさびしい様子なので
そこにシェードガーデンをつくる計画をたてている。
寝床の中であれこれデザインを考えるのは
とても楽しい。東京は狭い場所を美しく演出する感性にあふれていて勉強になる。
田舎はもっと陽射しも強く、地中海のような雰囲気なのでそれを生かそう。
陰の庭に一部差し込む明るい光の
コントラスト。
しばらくは想像の世界で楽しむことにしようと思う。
夢想するのは得意なので。                   2004.10.15




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秋雨に淡い色をそえて・・・

ふたたびセザンヌについて
セザンヌと先生について書いてみたがぼんやりとした記述になってしまった。
やはり才能はないのだろう・・・。
では原点に戻って、文章を書き綴るのが好きだというところからはじめてみようカナと思う。

セザンヌを私もとても尊敬している。セザンヌを下手だというひともある。
けれどもセザンヌ以降、誰もセザンヌでありえなかったという点でも
素晴らしい個性を育んだ人だと思う。下手か上手いか、ということは
稀有な画を残すことと関係はないようだ。
何より作品について言えば、その色彩、その心の眼、筆をつきうごかした情熱の跡。
また人生については、展覧会に落選しつづけ、田舎にひきこもり世間からも遠ざかり
そして純粋に絵の世界に取り組み果てた。

現代の急速な流れの中ではそんなことをしていれば世間から取り残され
ほこりまみれの貧困と失意に喘ぐことになってしまうのではないかと思う。

でもそれは当時でも同じことではなかったか。
それをやれるかどうかが、才能の有無だというひともある。
才能があるのだろうか、自分には?
先生が残してくださった言葉がそれに応えてくれる。
「才能があるかないかなど、くだらないことを考えずに絵をやることだ」

絵描きについての書簡や伝記を読んだとき必ず私をはっとさせるあいさつがあった。
「きみ、絵をやってるか?絵をやりつづけなきゃいけない」      2004.9.3




セザンヌと先生
油絵を始めたのは、その先生に
油絵をそろそろ描かないのか、と言われたのがきっかけでした。
まず中学の美術部で鉛筆デッサンばかりしていて、油絵は憧れていたけれど
鉛筆デッサンの達成の後でなければ許されないような、そんな気持ちだったので。

小学校のときにはピカソやダリに傾倒していたけれども
中学校に上がってからなんの拍子にか
セザンヌが最も好きになった。
セザンヌが好きな人は日本人にはとても多い。だから珍しくもない話でした。
そしてまた何かの拍子に先生は、僕はセザンヌをとても尊敬していると言われた。

先生は人物を描かなかった。私も人物を描かない。
私の場合は描かないというより描けないのでした。

先生は石切り場や工場などを描いた。
そうして何度も中央の展覧会に出品されていた。
セザンヌも石切り場を描いていたがここは先生ならではの絵を描いておられた。
一度は100号のキャンヴァスを学校の教室の後ろにすえつけて
そこで製作にかかっておられた。
楽しい駄洒落の授業をされる、日焼けした闊達な人だった。
バラの小品も描かれたが、それは上手いようには思わなかった。
向き不向きがあるのだと思う。

その先生が今年3月に他界されました。報せが耳に入ったのは告別式の日でした。
その後先生の奥様からお手紙などいただき、最後まで絵の教師としての境涯を
貫かれたことなど、また思い出のことなどあり、
さまざまに先生を偲んですごしました。

神の手、といって生徒の作品に先生が手を加えると完成する、というのがありました。
実際、作品の完成は難しい。
しかし若かった私は神の手が入るのが嫌でたまらなかった。
今ではもっとそこから学ぶことがあったかもしれないと悔やむのですが。
セザンヌと先生には何の関係もないので、セザンヌと先生という題はオカシイのですが
やはりセザンヌを追いかけて逝ったというような、そんな気がする、
あのサント・ヴィトワール山の向こうの空のかなたへと。     2004.8.29




さびしい庭

東京にやってきて思う。
狭い敷地を感心なほどうまく仕立てて庭を楽しんでいる。
散歩はそうした庭を見物する楽しみもある。
ときどき人の気配のない家がある。
雨戸も閉ざされ静まりかえり、庭は荒れている。
ただ荒れているというわけではなくかつていろいろと庭にこだわった形跡が
ここそこに見出される、そんな庭である。

そこに住んで手入れをしていた人に何かがおこったのだろう。
秋雨が暗い空からさらさらと降り始める肌寒い午後に、
その人の手をはなれた木々や花々が先の雨を含んで重たげにゆれている。
手入れできるものならしたいという気持ちが起こる。
そうしてよみがえった庭をしばし想像するけれども
それだけで、立ち去るしかない。

そうしたさびしい庭は、ここそこに、わりあいと多い。     2004.8.28



文章を書くということ
     

 鉛筆を持って紙に向うことが私のアイデンティティだったのは
まだ小学生のころだった。
中学生になって本の虫となった。
と、ここまでくると私の書いた文章の量に期待を持たせてしまう。
しかし実際には私の文章での「作品」とよべるものはあまりない。
まして物語というものは完成したもので1つしかない。

挫けるのは、自分の才能iがどうというよりも、
世間に出回っている著作物とその内容に対する
絶望からきているともいえる。
私が気に入るかどうかは関係なく、売れる本は売れ、
それだけ読者のお金をもっていき
もっと問題なのは読者の時間と感性までもっていくのだろう、というところで。
しかし共感をもたれるというのは、
重要な要素であることは認めなければならないと
最近は思うようになってきた。少しは大人になった。
それでもぱらぱらめくって、ひどい表現なり様子なりがあると
やはり読もうという気にはならない。

これはずいぶん悩んだがやはり読まなくてもよいのだろう。

読まれなくとも書けばいいという話もあるけれども、読まれてこそと私は考える。

そうしていたところ、絵を公開したいというわけでHPを作ってしまった。
読まれてしまう舞台が出来上がってしまったわけである。

ところがこちらは気づけば本から遠ざかってずいぶん長い。
10年前には映画批評のようなものを書いていたこともあるけれど、
ほんの遊びだった。

鉛筆とPCとでは勝手が違うし文章にも違いが出るけれども
ともかくひとつの完結した文ができたことを素直に喜んでみようと思う。
まず皆様にはあたたかい目で見守っていただければ、嬉しい限りです。     2004.8.27



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